京都生活

京都に住んで9年経った(2)ザ・コンパクト京都

前回「土地勘」について書いたときにも少し触れましたが、京都に住んでしばらくすると、比較的早い段階でふと気づきます。

「あれ、これ主要スポット全部チャリで行けるんじゃね?」

観光客だった頃の京都は、もっと広い街だと思っていました。お寺も神社も大学も、繁華街も観光地もたくさんあるから、勝手に大都市サイズだと思い込んでいたわけです。ところが暮らし始めると、意外なほど小さい。

東京がだだっ広いだけで地方都市はみなそういうものなのかもしれませんが、なにせ京都はコンテンツの密度が凄まじい。それらがみんな、こんな小さなエリアに配置されていたとは!という驚きは、住んでみてようやくわかるポイントです。観光目線だと目的の場所にピンポイントで目が行くので、何度も遊びに来ないと街の全体像や縮尺ってわかんないんですよねえ。

渋谷との同縮尺比較

「え、これ東京だとどれぐらいの広さなんだろう?」と移住当時のわたしはシンプルに疑問に思いました。

そこで、ワタクシがのらくら学生時代からシャカリキ会社員時代までその大半の時間を費やしていた、当ブログ発祥の地「渋谷」エリアと京都市内中心部を同じ縮尺で比較するとこうなります。

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京都の中心部はちょうど「広域渋谷」というワードがぴったりなサイズ感です。「中心部って渋谷から伊勢丹(新宿)までちょっと頑張って歩くぐらいの広さなんだよね」と言えば、東方の友人たちにもその意外とコンパクトなイメージがなんとなく伝わるようでした。

ちょっとわかりづらい例えですけど、個人的には体感ベースでの規模感は東京の私鉄ハブ駅、町田とか武蔵小杉とか溝の口みたいだなあと思っていました(偏ったサンプル)。なので、普通に街角を曲がったら知人に遭遇したり、「あそこの信号にいたの車から見たで」と気の抜けないことを言われたりすることもあるわけですが、そのようなことは東京での二十数年間にはほぼ無かったものですから、京都をもっと広い街だと勝手に思い込んでいたわたしからすると大変に驚きでした。距離の物差しが完全に東京とは異なっているというのは、他都市に引っ越した人も似たような経験があるんでしょうか?

電車という移動手段が消えた

そんなわけで、移動事情も随分違います。
京都では、東京にいるときはほとんど乗らなかったバスに乗るようになり、逆にほとんど電車には乗らなくなりました。外出のときはあんなに「乗換案内」アプリで電車の乗り継ぎルートを検索していたのに、もはや開きもしません。もちろん通勤通学でお使いの方はたくさんいらっしゃいますが、どこに行くにもとりあえず電車に乗ることがファーストチョイスの都民とはちょっと違います。

たまに地下鉄に乗ると、電車に座れること、いつでもそこそこ空いていることに感激します。朝の時間帯の阪急や京阪など、大阪方面へ向かう長距離電車であっても、東京でのあの絶望的な密度に比べたら大したことはありません。痴漢や奇人に怯えながら乗る殺伐としたギッチギチ満員電車地獄っていったいなんだったのかと思います。なんとなくそれが普通だと思って長年通勤通学してたけど、いや、そんなわけないわな……。

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 icon-camera 嵐電の入り口は季節で装飾が変わるのかわいいね(これは春の桜)

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 icon-camera 四条通は地下道が最適解

いままで家や目的地の場所を「初台から3分」みたいな最寄駅ベースで示していた地理の概念が根こそぎなくなり、おまけに京都の現在地は「千本丸太町あがったとこ西側」みたいな通り名+東西南北ベースになるわけですから、距離感の物差しどころか単位そのものまで変わっちゃうわけです。

この感覚を会得して、自分で「蛸薬師東洞院下がったとこ」とか一丁前に言い出すのにはある程度時間がかかりますが、狭い街だからこそ、このわかりやすい碁盤の目であることがとても重要なんだなと実感します。

地方都市は車移動も主かと思いますが、いかんせんゴールデンペーパードライバーのわたしですので現在はオールチャリライフ。雨の日も雪の日もママチャリでぶっ飛ばしてきました。京都市内はどこに行くのも全部近いのをいいことに、もっぱらチャリで行けるとこだけで暮らすようになり、年々「体内物差し」が小さくなってきてしまいました。

もう若くもありませんから行動範囲もさして広がらず、10年目ともなるとクルクルと同じ場所を回るかのように、狭い京都のさらに狭い範囲で暮らしています。半径300メートルぐらいで生きてるな、実際。

京都の狭さと村文化

そして、この物理的な狭さは、そのまま「人間関係の狭さ」にも直結しています。
京都生まれの家族は「京都は村だ」と言います。エリアが狭いから、人間関係のつながりがとても濃い。人口の半分近くが他府県出身者で、基本的に近所付き合いの薄い東京とは真逆です。

変なたとえですが「川端二条の北側に新しくできたラーメン屋って、その前吉田さんの居酒屋だったよね?うちのパパの同級生だったけど手広くやってたの今もう何店舗か閉めてるらしいよ」みたいな細かさで噂が伝ってきたりすると、「おお!村!」という感じで、すこぶる新鮮です。

わたしの地元福井でも同じように「あの店長うちの姉の元カレ」みたいな田舎ならではの狭さはもちろんあるけど、京都には人が多いので、都市ならではのもう一段こってりした人脈マターがある気がします。良くも悪くも、ギュッと人を囲むサークルが小さくて、なおかつサークル同士のいろんな重なりがある。

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 icon-camera 各車幅が考慮されているわけではないギチギチの交通サイン

特にわたしが狭いテリトリーの中でもたびたび気になって仕方なかったのが、いろんなお店の「内輪感」です。買い物や外食はわたしにとって数少ない「外の人と触れる(観察する)チャンス」なのですけど、なんというか、常連客や店側のコミュニティの存在感がすこぶる大きいんですよね。

例えば、お店のインスタで普通に店主の体調不良やバイトの卒業や常連さんの誕生日の話出てくるんだ…とか、「あ、お客さん来てるしごめんね」って常連さんと話し込むのやめないんだ……とか、思いがけずクローズドなスタンスに最初は正直「いや知らんがな」と居心地の悪さを感じることもちょいちょいありました。

これがカウンターだけの小さい飲み屋とかならもちろん話はわかるんですけど、雑誌に載るような有名飲食店やおしゃれな雑貨店でも同じような疎外感を味わうことが多かったんですよね。あと、似た雰囲気や業種のお店のつながりが深くてお互いを行き来したりコラボしたりという関係性の重なりがたくさんあります。

なんだろこの違いは、と考えたのです。

もしかしたら、東京は地方出身者のパッチワークでできた大きな街だからこそ、お互いに深入りしない「匿名性」みたいなのが高かったのかもしれません。お互いが『心地よい他人』として共存しているような感覚。もっとビジネスライクで、それはそれ、これはこれ。あんまり馴れ合わないイメージです。それに比べたら京都は人のつながりがとても見えやすいです。

しかしながら、街の狭さを理解した今なら「そりゃそうか」とも思えます。これだけ物理的にコンパクトな街なんだから、店と客が地続きのグラデーションで繋がっていくのは自然なこと。SNSも集客のための宣伝ツールというより、もっと生々しい「地域の回覧板」のような役割を担っているのだろうなと思えば、その距離感も腑に落ちます。

わたしはママ友以外の知人ゼロ、なボッチ移民なので人間関係の近しい距離にはまだそんなにご縁がありませんけど、村っぽさというのは良し悪しですから物理的にこれだけ狭い中では窮屈なこともあるだろうなあ・・・と想像するばかりです。

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 icon-camera 本願寺前は抜けててチャリ楽(あと御池と堀川)

京都生まれの人たちがなかなか外に出ないのも、学生時代を過ごした多くの人たちがこの居心地の良さを存分に深掘りして大切な思い出として語るのも、とてもよくわかります。

一方で、知れば知るほど若い頃に上京して良かったなとも思います。一度東京から抜けてしまったら、もうあの縮尺感覚には戻れない。関東圏というのは凄まじく広いし、そもそも街の情報量が凄まじい。エネルギーを使い果たしながら若い時代を過ごした者から見ると、京都で若い頃を過ごすのはこのコンパクトさが少しもったいようにも思えます。

さて、色々書きましたが人間関係の方はさておき、結論としてこのコンパクトさは、中年になった今のわたしにはすこぶる快適です。効率的で小回りが効いて、いつもぼちぼちの都会にいられる感じ。ローカロリーで都会の利便性を享受したい中年の移住生活には、この「思ったよりずっと小さかった」という縮尺が、案外ちょうどいいのです。

京都のあらゆる特徴は、この街のコンパクトさから説明できる気がする。 京都に住んで一番驚いたことは何かと聞かれたら、寺でも歴史でもなく「思ったよりずっと小さかったこと」かもしれないです。

次回「スーパー観光地に住むということ」につづく。

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